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映画「ソーシャルネットワーク」を見てきた

産婦人科からは今週末から来週頭と言われたらしいんだが、なんだか東北新幹線がトラブルで止まっている。こりゃ呼び出されてもどの道行くことができない。そんなこともあって、思い切って気になっていた映画「ソーシャルネットワーク」を見に行ってきた。

ソーシャルネットワーク
http://www.socialnetwork-movie.jp/

知っている人は急激に増えては来ているんだろうけど、実際のところ日本ではまだまだな感じのあるFacebook。そのFacebookの生い立ちと言うか、創設者であるマーク・ザッカーバーグ氏はどういう人物なのか?と言うことにスポットを当てた作品。
予想通りというかなんというか、今日が公開初日であるにもかかわらずに千葉のカタ田舎では劇場の中はガラガラだった。開始10分前に劇場内私一人とか、どういうこと。。。(最終的にはチラホラと人は来た)

臨場感

基本としては結局のところFacebookの生い立ちなので、Facebookが大きくなるにつれて起こるあれこれが語られてるだけと言えばだけ。
ただ、どうやって起業していくのか。どういう利害関係者が現れ、なぜ去っていくのか。そしてどうなるのか。
とてもスピーディーに描かれており、これらの臨場感によって2時間はあっという間に過ぎ去ってしまった。

  • 女性関係
  • 親友との関係
  • 尊敬する人との関係
  • 訴訟(しかも複数)

そしてそれらの中で持ち続けるFacebookにかける情熱。それらが伝わってくる感じだ

ただ。。

Facebookそのものが未だ盛り上がりに欠ける日本では、なかなかヒットするのは難しいだろうなとも思った。
マーク・ザッカーバーグ氏の才能や、ナップスター創設者であるショーン・パーカー氏のカリスマ性。これらは見ている側としては共感するのは難しいし、物語の中にも特に見ていて感動や喜びといった感情の起伏が発生するようなものはない。
笑っていいのか微妙なジョークは出てくるけどね。
そういう映画じゃないと言えば、間違いなくその通りで、そういうことを目的にした映画ではない。
しかも、マーク・ザッカーバーグ氏はまだまだ生きているし、Facebookもまだまだ発展していくだろう。そういう意味では何も完結していないしするはずもない。本作の中でも出てくるが「永遠に未完成」だ。
そう考えると、映画そのものも、実はこれで終わりではなくまだまだ先が出てくるのではないか?この先の未来に続く物語がまだ出てくるんじゃないか?そう思うところもある。

Facebookがカットオーバーされたのが2003年。たった7年ちょっとでここまで巨大になった。何を持ってソーシャルネットワークと言うかは論議のあるところだろうけど、私自身、Mixi,Twitter,Facebook,LinkedIn。。。多いなぁ。収拾がなかなかつかないよね。
すでに”ソーシャルの次の時代”なんて話題もチラホラと聞くようになっている。
ソーシャルをつなぐのか、ソーシャルに関係なくインタレストをつなぐのか、そして次は・・・。先はまだまだあって、果たして生きている間にどう変わっていくのか。そして自分自身はそれらにどう関わっていくのか。
楽しみな時代に、私たちはいますね。

フェイスブック 若き天才の野望 (5億人をつなぐソーシャルネットワークはこう生まれた)
デビッド・カークパトリック
日経BP社
売り上げランキング: 10

オペレーショナルインテリジェンス

オペレーショナルインテリジェンスを読んだ

オペレーショナル・インテリジェンス―意思決定のための作戦情報理論
松村 劭
日本経済新聞社
売り上げランキング: 94166

これは、以前に「わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる」さんで取り上げられていたもの

陸上自衛隊作戦幕僚の情報理論「オペレーショナル・インテリジェンス」
http://dain.cocolog-nifty.com/myblog/2007/07/post_3d37.html

レビューを読んで、とても気になった。気になってAmazonを探してみたがどうやらすでに新刊では売られていなかった。というわけで中古で購入。レビューにある通り、情報というものに対しての考え方というものを再考させられる著作だった。

情報とは。そして情報を考える上で気をつけること

“情報”というもの。普通に私が考えると、これを英語にするとInformationになる。著者は、普段我々が接しているいわゆる”情報”は情報足り得ていない。本来の情報(Intelligence)とは、集めてきた情報に対して目的に合致しているか。真偽のほどはどうか。これら判断をしたものになる。判断をしていないものは”情報資料”と呼び、こちらがInformationになる。
このあたり、何を何と呼ぶのか?と言うところはあまり問題ではないが、この二つを混同して考えると大変なことになるのはもっともな話。特に現状のWEBをリソースとした情報に関しては特にそれが言えるだろう。

本書では情報について考えるポイントを3つあげている

  • 情報と、情報資料を明確に区分する
  • 決断に間に合うのか。行動はできるのか
  • 変化する情報か、変化しない情報か

順番的にはこう紹介されていたけど、個人的には2番目が最後だとは思っている。
これ、仕事でもよく思うことだ。何か物事を報告されたり問題に対しての相談を受けることがよくあるんだけど、言っている内容がどういう内容なのかの説明がなかったり遅れていたりする。そのうえで判断やアドバイスを求めてきたりする。何度言ってもそれが繰り返されてしまう。すでに考えることをやめてしまっているのではないかと思ってしまうくらいに。
また、目的があっての情報収集であるはずが、情報収集の傍らで情報収集そのものが目的にすり替わってしまうような行動をしてしまうこと。これも注意しなければいけないこと。目的を達成するために必要な情報以上の情報収集をしているがゆえに、タイミングを逃してしまっては元も子もない。このあたりは、さすがに当たり前すぎて本書では触れられていない。技術者が時々陥りやすいことと言えば陥りやすいことではないかと思う。

シソーラスを作る

シソーラス。これって一般的に知られている用語なんだろうか。ちなみに私は知らなかった
Wikipediaによると

シソーラス
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%82%BD%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%82%B9

単語の上位/下位関係、部分/全体関係、同義関係、類義関係などによって単語を分類し、体系づけた辞書。

となっている。分類辞書。情報に対しての話で言うとカテゴリーだとかタグだとかがそれに値するのではないだろうか。
私は昨年末あたりから本格的にEvernoteを利用し始めている。Evernoteに限った話ではないんだけど、色々な情報をどこかしらに集約させた場合は、どうやって必要となる情報をその中から導き出すのかというのがカギになる。そのための自分用のシソーラスを構築する必要があるわけだ。

本来情報には目的がある。すでに集めた情報の中には結局のところ目的に合致しないものもあれば、時間が経過したことによって目的を終えてしまったもの。意味の無くなってしまったものもある。
シソーラスに対して時間的なものを導入しようとすると、必ずしも上下関係のあるカテゴリーよりはタグのほうが管理しやすいと考える。
また、目的の上下関係を超えて共有するようなタグもあるだろう。

ブリーフィング

ソフトウェア業界で働いていると、、、、というか、そんなに別の会社の状況を知っているわけではないんだけどメールに頼ってしまいがちだ。
余程の簡単なことでない限りメールで指示を出している。メールで指示を出す一つの目的はリマインダーの役目。実際問題、言った言わないの話が曖昧な記憶に頼ってしまうのは危険だと思っている。
ただ、本書で述べているようにお互いの顔を合わせての意思疎通。そこで初めて分かることも多い。
リマインダーはリマインダーとして、ブリーフィング後にメールを出せばいいんだけど、そこでメールを出すくらいなら最初からメールでいいじゃんというように思ってしまうんだけど、もしかしたらそれは効率化につながっていないのではないか?と最近強く思い始めた。
作業は出来るかもしれないけど、それが作業以上にならない。何時まで経っても自分の仕事にならずに、どこか他人ごとのように作業をしている。
自分自身の行動に関して、今一度見直すべきなんだろう。

“情報”というのは、収集・伝達・判断・保存そのどれもが難しく、だからこそちゃんと考えないといけない分野。自分自身の身の回りの情報ルートや記録の仕方は定期的に見直しをかけていかなければいけない。
めまぐるしく動くWebがあるからこそ、自分は今ここにいるのだし、これからもそうだ。

2つの仕事観

仕事に関する二つの記事を読んだ

仕事なんて楽しいワケがない!プロは客に尽くして喜ぶものでしょ
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20110112/217893/

仕事を楽しむなんてあり得ない。

日産の方の仕事観。
結構過激な内容だな~と思った。どちらかと言うと50代近辺に多い印象があるな、この考え方は。古いとかそういう意味ではなくてね。なんとなく。ただ、こういいきってしまうくらいの思いがあるというのはすごいと思う。
個人的には内容としてはちょっと引いてしまう面もなくはないのだが。うん、言っている意味はわかる部分ももちろんあるけどね。

辞めません、でも頑張りません――「新・ぶら下がり社員」現る
http://bizmakoto.jp/bizid/articles/1101/13/news002.html

 例えば営業担当に「今月は先月より新規顧客を5件増やせ」と指示を出したら、その指示を従順に受け入れ、新規顧客を増やそうと行動し始める。

 問題は、言わない限り動かないという点である。自分から仕事を増やそうとも、仕事のハードルを上げようともしない。新しい提案などはまったくしない。いつまでたっても受身のままである。

うーん、これはまいった。印象としては確かに20~30代前半に多い印象はある。たぶん、どの年代にもこういう人はいるんだけど、色の濃さで言うとそんな印象。この考え方の困ったところは、”戦力になりそうなんだけどいざという時に使えない”というところなんだよね。
この頃よく思うのが、たぶん、すごい(私と比べると)頭のいい人が一杯いて頑張れば色々できそうでも、頑張る理由を探して、でも結局見つからないって理由で頑張らない。いや、頑張っているんだけど”それはそれとして”という線を引く。
On/Offの線を引くことは、別に悪いわけじゃないとは思う。日産の人のように体育会系に走るつもりはない。ただ、もったいないとは強く思う。それだけ自分も技術力とかあればな、、、と。

でも、実際のところは私がちゃんと向き合えていないだけなのかもしれないな。それで逃げ口上ばかり出てくるのかも。
部下とも、上司とも、自分とも。ちゃんと向き合わないといけないね。

TEDは色々と勉強できそうだ

先日、iPadを有効活用としてTEDが紹介されているエントリーがはてなで出ていた。
私はiPadだとかそういったタブレット端末は持っていないのだが、「TED」ってなんぞや?と思って見てみるとなかなか面白い。結構はまってみてしまっている。

TED ideas worth spreading
http://www.ted.com/

f:id:krote:20110112223937j:image

簡単に言うと、色々な著名な方々が講演をしていて、しかもそれらが無料で見ることができる。iPadだとかiPhoneだとか関係なく普通にWEBで見ることができる。
実は果たして人生でいったい何度目なんだという突っ込みが入りそうではあるんだけど、ちょうど英語を勉強し始めていて、この内容にとてもびっくりした。まさにうってつけじゃないか、と。

翻訳付き

TEDの講演はものによるが多くの言語に翻訳されている。翻訳内容は字幕という形で出すことができるので、必ずしも英語目的じゃなくても純粋にスピーチを楽しむことも可能だ。

f:id:krote:20110112223938j:image

字幕は自分で選択することになる。全ての講演に対して日本語の翻訳が提供されているわけではないが、かなりの数がカバーされている。実にありがたいことだ。純粋に字幕とスピーチから耳を鍛えることも可能だが、私のレベルの英語力では聞き取れない言葉がほとんどである。
そんな時は右側にある”Open interactive transcript”を選択して、字幕を全文出し、その言語を英語に変えれば

f:id:krote:20110112223939j:image

字幕を動画に出しつつ、英語の文を確認することができる。素晴らしいの一言だ。1動画あたりの時間も15分前後なので、長すぎず短すぎず。
動画そのものはYouTubeでも公開されているのだが、これらの環境が整っていることを考えれば本家で見るのが一番だと思う。

ちなみに画像は数学学習の問題を取り上げたもの、

コンラッド・ウルフラム:コンピュータで子どもたちに教える本当の数学
http://www.ted.com/talks/lang/jpn/conrad_wolfram_teaching_kids_real_math_with_computers.html

コンテンツの素晴らしさ

英語の学習教材は、最近ではどれも工夫を凝らしてなんとかして続けられるような題材を使っている。しかし、勉強だと思うとどうしても途中で嫌になってしまう人もいるのではないだろうか。
TEDは、その時における第一人者が話をしていたり、問題を共通認識で考えてほしい!という思いでしゃべっている人たちがほとんどだ。英語だとか抜きにして、純粋にその内容には引き込まれるものがある。と言うか、英語が~とか言う前になんとか聞き取ろうと思わず耳をそばだたせてしまう内容だ。
もちろん、これら動画だけで英語をマスターすることはまず難しいというか無理なんじゃないかと思う。ただ、英語に対しての興味や「もっと聞かせてくれ!」と思えるコンテンツがここにはあるように、少なくとも私は感じた。

ちょうど英語を学ぶことについての講演があった。中国での英語教育も取り上げられており、なかなか面白い…というか、本当かよ!って思ってしまった

Jay Walker on the world’s English mania(ジェイ・ウォーカーが語る世界の英語熱)
http://www.ted.com/talks/lang/eng/jay_walker_on_the_world_s_english_mania.html

冷めた日本人としては、「はいはい、中国人中国人」となるかもしれないけど、実際問題これは結構恐ろしいことのようにも思える。

iPhone

さてiPadばかり紹介されていたが、iPhoneでももちろん視聴可能だ。ただ、恐らく公式っぽい「TED mobile」は字幕を出す方法が分からなかった。
他に無料の「TED player」があって、こちらは無料で字幕も付いている。先にダウンロードしておけばいつでもストレスなく高画質の動画を見ることができる。お勧めではあるのだが、「TED player」が対応している動画がまだ少ない。今後、自動更新に対応していく予定とは書いてあるので期待大だ。

TEDは先に書いたとおり、翻訳がされていない動画もある。これだけ魅力的なコンテンツになると、翻訳されてない動画にも興味がわいてくる。
それらの動画を見て理解するためにはどうしたらいいだろうか?
じっと、翻訳をされるのを待つのか、自分で理解できるようになるか。

結局のところ英語は道具であって目的ではない。自分の知的好奇心をくすぐってくれるこれらコンテンツが英語で提供されているということはとても動機づけとして喜ばしいことだと思っている。もちろん、自分で理解することができるレベルに達する前に翻訳は完了してしまうかもしれないが。。。

待ち人、未だこず

2011年1月11日が過ぎようとしています。
この日が、私の2人目となる子供の予定日だったわけですがやはり予定日通りにはいかないものですね。
11/1/11とかとても面白い日付がせっかく回ってきたのでちょっと期待していたのですが、こればっかりは思うようにいかないもの。
特に男はこういうときは何も感じることもすることもできずにオタオタしているのみ。

しかし、いつ呼び出されるかわかったものじゃないのでちょっと困ったものです。もっとも、呼び出されたとしても実家に帰っている嫁のところにたどりつくためには約4時間はゆうにかかりそう。
前回もそうでしたが、今回も立ち会うのは難しいかな~?なんて思いながらもドキドキしています。
さてはて。さてはて。
ああ、じれったい

成人の日に思うこと

今日は成人の日ですね。新成人の皆さんおめでとうございます。
今年成人ということは、1990年生まれになるのかな?

新成人人口は124万人(総務省)
http://www.stat.go.jp/data/jinsui/topics/topi492.htm

ちょうど総務省・統計局にデータがあった。見てみると、今年の人数がどーのこーのと言うよりもその推移に目がいってしまう。これから少し新成人は増えていって、そこからはひたすらに若年人口が減っていく構造がもろに見えてしまって、せっかくのおめでたい雰囲気が台無しだ。

最近、日経新聞の朝刊で「三度目の奇跡」と題した特集がされている。一つ目の奇跡は「明治維新」。そして二つ目の奇跡は「戦後の復興」になる。日本が現状の停滞感・閉塞感から大きく抜け出すには?ということだろうか。
労働力人口という観点から見てみると、先に書いたとおり現在の定義における”日本人”は少子高齢化をひた走ることになっている。そうなると単純に考えるのであれば、頑張って子供を増やすか外から受け入れるしか労働力を補うことはできない。
もちろん、数が増えればいいのか?と言うとそういうわけでもない。現状の日本では学力の低下が叫ばれて久しい。日本では製造現場の効率化は進められてきているが、マネジメント分野に関しては生産性が先進国の中では大幅に見劣りするという話も聞く。
つまり単純に数を増やすのではあまり意味がなく、その質を上げることを考えなければいけない。だが、のほほんとした「競争をしたら負けた子がかわいそうじゃん」みたいな考え方がのさばっている以上はなかなか難しい気もする。

恐いのが、こういう話が学校だけじゃなくて企業内でも言えることだ。
“現状維持”を目標にしていてなんとなく会社に来ている。頑張ればもう少しスキルアップも出来なくはないが、あんまり頑張っているとなんだか社畜っぽい。ワークライフバランスに反する。まじめにやってるなんてかっこ悪い。
そういう考え方を否定するわけじゃないんだけど、今の日本で、その考えのままでやっていけるんだろうか?そんな人を雇うメリットはあるんだろうか。
私がいるIT業界に関して言うと本当はもっと切実な問題のはずだ。外にはいくらでも有能なリソースがいる。日本人が今、日本で仕事ができるのは、相手が日本の企業であり、かろうじて”日本語”が出来るからではないだろうか。今後、日本企業がグローバル化していくうえで”日本語”が必要とされなくなれば、簡単にその優位点はなくなってしまう。その時、今の労働者はどうなっているだろう。
ちょっと今の時点においては大げさなのかもしれないが、すぐに大げさと言うわけでもないという状態になるのではないかと思っている。その中で出来ることは何か。新成人と言うわけではなく皆が考えなければいけないことだろう。

通貨経済学入門

宿輪先生の新著「通貨経済学入門」を読んだ

通貨経済学入門
通貨経済学入門

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宿輪 純一
日本経済新聞出版社
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直前に読んだハーバードの「世界を動かす授業」が経済状態を政治に絡ませて説明していたのに対して、本著は通貨というものに対して昇天を当てて世界経済を見ている。
ただ、読み物と言うよりはどちらかというとやっぱり通貨経済に対する”教科書”の色が強いように感じる。そういう意味では教科書が苦手な私には序盤が読むのが大変だった。しかし、終盤に行くにつれ前半の内容理解も進んでいき、最終的にはなかなか面白く読むことができたと思っている。苦手意識を持っているのでちょっと意外だった。

通貨制度に対しての理解度

通貨制度という点において、「変動相場制」だとか「固定相場制」という言葉はもちろん知っているし、基本的な変動相場のメカニズムに関しても理解しているつもりだ。
ただ、実際のところ貿易においてどうお金が流れているのか。それが固定相場の場合は?という風に考えてみると、結構わかってないことが分かった。ううん、ちょっとがっかりだ。
たとえばものを輸出した場合。取引をドル建てで行うのであれば企業はものと引き換えにドルを得る。最終的には円に両替することになるわけで、ドルが売られて円が買われる。つまりその分円高になる。変動相場に対してはたぶん大丈夫。
これを固定相場に置き換えた場合がイマイチピンとこない。固定相場においての相場は通貨当局によって固定されている。つまり、企業が得た外貨は市場ではなくて通貨当局に両替してもらうことになるのかな。つまりは、輸入>輸出の関係が成り立っている場合には通貨当局の外貨準備は増えていくことになる。外貨準備が増えていくってことは、それ相応の国内通貨を供給したということになる。その場合、国内の通貨供給量の総量が増えることになるので国内経済はインフレに向かいやすくなってしまう。逆のケースで考えると、保有している外貨準備が底をついた段階で両替が不可能になってしまう。それを起こさないためには、金利をあげ、外からの通貨への”入り”を増やして手に入れる必要が出てくる。
うーん、固定相場は単純に”固定”だから単純じゃーんって思っていたけど、ほとんどが知らない内容だった。しかもそれを説明しようとすると大変だ。

経常収支

本書では通貨危機の発生原因の一つとして通貨のファンダメンタルズというものを取り上げている。ファンダメンタルズの構成要素として出されているのが

  • 経常収支
  • インフレ率
  • 経済成長率
  • 財政収支
  • 相場の予想

としている。注目は経常収支の中でも貿易収支であったのが、昨今は投資に対しての収支を注目・・・と。
イマイチピンとこなかったので、調べてみた。財務省と日銀が出している国際収支統計というものに、経常収支が載っているようだ。ちなみに国際収支統計はWikipediaによると

国際収支統計
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E5%8F%8E%E6%94%AF%E7%B5%B1%E8%A8%88

一定期間における国(またはそれに準ずる地域)の対外経済取引(財・サービス・所得の取引、対外資産・負債の増減に関する取引、移転取引)を記録した統計である。大まかに経常収支、資本収支、外貨準備増減の3つに分けられ、またその中でさらに細分化される。

経常収支の中には投資に対するものと言うのは所得収支がある。ただ、国際収支統計にある経常収支と並んで報告されている資本収支というものもある。この二つの関係性がよくわからない。文言だけを見る限りだと、結構被っていそうな印象を受ける。
というか、「経常収支」「国際収支」「国債収支」「投資収支」なんたらかんたら・・・

ああああーー(頭をかきむしる)

こういう言葉。普段から知っておけよ!という言葉もあれば初耳な言葉もいくつかあって頭の中でゴチャゴチャしてくる。物覚えの悪い私にはやっぱり教科書は大変だ。

ちょっと区分けしてみよう

以前読んだ「ハーバードの世界を動かす授業」では世界をいくつかの国々に分割して考えていた。そこで分割された国々に、通貨と言う視点を加えてみたらどうなるだろうか。P.82に掲載されている表2-1-1に基づいてやってみた

区分け 国・地域 通貨制度
高度成長のアジア シンガポール 管理変動相場制
中国 アジャスタブル・ペッグ制
香港 カレンシーボード制
インド 管理変動相場制
資源に依存する国々 サウジアラビア 伝統的固定相場制
ロシア その他の固定相場制
狭まって身動きが取れない国々 メキシコ 管理変動相場制
南アフリカ共和国 管理変動相場制
欧州連合 EU 自由変動相場制
巨大債務に悩む富裕国 日本 自由変動相場制
アメリカ 自由変動相場制

こうしてみると、やはり資源国や発展途上のアジアに関して言うと何かしらの政府の関与が色濃く、そのフェーズを越えたと思われる国々は変動相場を採用しているように見える。すでに、政府側で相場を固定にするメリットが薄くなってしまったということだろうか。
やってみたものの、それなりに予想通りではあったのでなんとも。もう少し違う視点をつけるには知識が足りないな。

それにしても

株だとか日経新聞だとかを読んだりしている割に、未だに基本的なことがあれこれと理解していないんだなとつくづく実感してしまうのが正直なところですね。
それでも、これまで宿輪ゼミでチンプンカンプンだったコルレス銀行の話も出てきてようやく少しわかったり、その他いくつかの気付きを得ることができた。

経済って、すごい身近にある話にもかかわらずあまり意識されない。どこか、他人事のように扱われている気がする。もちろん、景気動向のようなものに対しては結構敏感なんだけど、それでも発想は”円高・円安”、”失業率”くらいではないだろうか。
これら知識を知ることによって、景気が良くなるわけではない。
ただ、今何が起きているのか。この先何が起きればどういうことになるだろうかという予測を立てることは人生設計において大事な内容だと思う。
もちろん、知識は使ってこそ。どう生かすかは自分次第だ

どうして羽生さんだけそんなに強いんですか

梅田望夫氏著。「どうして羽生さんだけが、そんなに強いんですか?」を読んだ

どうして羽生さんだけが、そんなに強いんですか?―現代将棋と進化の物語
梅田望夫
中央公論新社
売り上げランキング: 6589

TwitterのTL上にひたすらリツィートされて、正直嫌気がさしていた。ただ、子供のころによく亡きオヤジと将棋をやったな…と懐かしむ気もありつつ購入。結局まんまと乗せられた格好だろうか。
本書は現代の将棋界をあまり知らない人から来る素朴な疑問「どうして羽生さんだけが、そんなに強いのか」というものに対する答えを、実際に大局している棋士やそれを取り巻く人の目線。考え方や発言をもとに梅田氏が説いているもの。

単純に考えるのであれば

そもそも、現在どういう棋士が活躍しているのかを知らない人たちにとっては羽生さんしか知らない。もちろん私も知らない。
それは、情報として表に出てくる内容が「羽生○冠達成」みたいな情報だけだから。「○冠達成」ということは、今回奪取したタイトルは羽生さんは前回負けていたということだが、将棋好き以外の耳に入ってくる情報と言うのは勝った時だけだ。しかも、連続で勝つか複数のタイトルを(しかも多くの)取った時だけ。そもそも羽生さんが7冠なんて達成してしまった以上、4~5冠で大きく報じられるだろうか。それすら心配になってくる。せいぜい新聞の片隅に書かれる程度でテレビでは報じされもしないだろう。

どうして?

とはいえ、結局露出してくるのが羽生さんだけということは、ぬきんでていることだけは確かなんだろう。そういう意味では私の考えは答えになっていない。ただ、”どうして?”というのは、将棋だけに言えることではないがどれも理由にならないのではないかと思う。
「こういう考え方ができるから」 → 「そう考えればいいの?そう考えれるのはどうして?」
「こういう背景があったから」 → 「そういう背景があればいいの?」
つまり、そもそも漠然とした疑問なので漠然とした回答にしかならないのではないのかな。「どうして?」の真意があればその真意に対して答えることになろうが、真意無き疑問に明確な答えは出しづらい。
梅田氏の出した内容に対して異議があるわけではまるでないけど、そう考えてしまうのはひねくれ者の発想だろうか

ただ、将棋というものの戦法を編み出していく過程に対しての考え方がとても面白かった。

将棋でも、日々研究がおこなわれていてあれこれとしたアイデアが生まれる。アイデアは山のように出てきてはいるが、実際の戦いで使ってみないと、本当のところでは使えるアイデアだったのかが分からなかったりする。そしてそれは技術やビジネスにおいても言えることではないか?というもの。

なるほど、確かに。
技術者はあれこれと考える。新しい機能を考えてみたり新しいインターフェースを考えてみたり。それに対して需要や実現性、コスト等に関して検討したりするが、実際にそれを市場に出してみないとわからないことが多い。大まかな流れは、どの世界においてもやはり共通するものがあるということだ。

さて、ではこれを読んで私はどうするのか?
・自分が戦場としている場所にどう向き合うのか
・本質はどこにあるのか。それを見抜くための判断力や対応力を身につけるには
等々に対して向き合っていくことだろうか。
ふむぅ、一筋縄ではいきませんね

余談

そういえば、私に将棋を教えたのはオヤジだった。いつ頃から、何をきっかけで始めたのかはすっかり忘れてしまったが、少なくとも小学校1年くらいから駒に触っていたように思う。もっぱらの相手はオヤジだったけど、近所の公民館で将棋盤や駒を貸してくれて時々友人たちとも将棋をしていた記憶がある。
中学ぐらいまでは友人同士でもやっていたのではないだろうか。今から考えると、随分とまぁ。。。今の世代には受け入れられないだろうな、そんな話。ただ、携帯ゲーム機のようなものはなかった時代だ。そういう意味では遊び道具に近かったんだろう。打っていたと言っても勉強していたわけじゃないから、陣形や囲いのようなものは見よう見まね。臨機応変に組み立てられないからかえって失敗してばっかりであった。
懐かしい。

実は現代において将棋は人気がなくて、あんまり棋士っていないんじゃないだろうか?なんて思って調べてみた。
Wikipediaによると

http://ja.wikipedia.org/wiki/将棋
1年に1回以上将棋を指す15歳以上のいわゆる「将棋人口」は、1985年度の1680万人から、2005年度840万人、2006年度710万人と大幅に減少し、漸減傾向が続いている。

うん、一気に減ってはいるね。
囲碁は碁石が白黒だけど将棋は漢字が書かれていることや、似たゲーム(チェス)があちこちにあることが将棋の国際化を阻んでいるらしい。チェスとかと違って、将棋は取った相手の駒を再利用することができる点がとてもゲームを面白くしていると思うんだけど、難しいがゆえに広まらないのだろうか。

Facebook入門

何気なくWEBを徘徊していたら、1月7日に発売となるFacebookに対する書籍を期間限定無料配信!とあったので飛びついて読んでみた

日本人のためのフェイスブック入門 (Forest2545Shinsyo 29)
松宮義仁
フォレスト出版
売り上げランキング: 4505

本書は、Mixi慣れした日本人には実にとっつきにくいFacebookを日本人向けに説明したもの。
私自身はFacebookに入ってはいるものの特に何をするわけでもなく、軽くチェックする程度。何せ悲しいことに友達がいない。その上、頑張ろうという気がまるでないのだから困ったものだ。
まぁ、これはMixiでも言えたことなのだが(Mixiでもマイミクの数は23人と少ない)。そんなレベルの私が読んでみて思ったことを書いてみようと思う

Facebookの魅力は?

Mixiとの最大の違いはやはり、その参加人数だろう。Mixiとはケタが違う。単純に桁が違うだけでなく、その広さは世界中に広がっていることから可能性を考え始めるとその大きさには目を見張るものがある。
また、基本的に実名を推奨していることからある程度の情報に対する信頼度を得ることができる。情報を鵜呑みにするのは禁物だろうけど前提条件として”この人からみたこの内容に対する意見”がつくのは大きい。そしてそれが連鎖するととても楽しいのではないかと思えてくる。
Mixiはというと、先日結局導入を中止せざるを得なかったメールアドレスによる知人検索機能を見ていてわかる通り、日本でリアルと直接リンクしそうなものを導入するのは、まだ難しいように感じる。あまり込み入った点までは突っ込まないが、いわゆる”公開したくないようなこと”と”公開していること”との間でメールアドレスを共有するなどあまりにも幼すぎる。どうせ嘘をつくのであれば・・・というやつだ。

友達を作る必要性

SNSはその名の通りネットワークを作ってナンボのものである。MixiしかりFacebookしかり。
しかし、実名性の薄いMixiですらマイミクを作ることが苦手な私にとって実名によるつながりを重要視するFacebook上で友達を作ることはなかなかに難しい。
適当に片っ端から気になる人に対して友達申請をしていったり「いいね」ボタンを押しまくったりして頑張れば、多少は友達もできるかもしれないけど、そうして出来た友達が果たして自分にとってのネットワークとして有効だろうかと考えるとなかなか難しいものがある。
そうなると、何かしらのイベントに参加するなりして実際にリアルでコネクションを作り、その補完としてFacebookを利用するのがいいように感じる。

かといって、リアルでのつながりをネットに持ち込んだだけでは結局のところFacebookの利点であるそのバックボーンとなる世界中の参加者との接点は永遠に開かれないように思う。
リアル・バーチャルの垣根やバランスというものはよく考える必要がありそうだ。本書では「友達1000人目指す」とあるように、ネットワークを構築することを第一に考えている。ただ、これに関しては人によって意見の分かれるところだろう。

匿名か実名か

これは個を表現したがらない日本人には難しい問題だと思う。文化といえば文化なのかもしれない。
個を表現と言ったが、表現したがらないというよりは自信がないんだと思う。

私自身ブログを匿名で書いているので偉そうなことを言えたものではないのだけど、たとえばブログやTwitterアカウント等が知れ渡った場合には、自分の知らないところで何かが動いていそうでちょっと嫌になるわけだ。
自信がなかったり、漠然とした不安みたいなものがある。ちょっとうまく表現できないな。
ただ、別にブログで誰かの陰口を叩いているわけではないし、仕事で得た情報を多少は利用したことを書くかもしれないけどそれが会社にとって不利益になるようなことではない。
せいぜい「ブログ書くことに一生懸命になっていて本業がおろそかになってんじゃないのか」くらいではないだろうか。

そう、理論的に考えればだ。
いわゆるデジタルネイティブの世代はそういうことは考えるまでもないのだろうか。そう考えると、自分はやはり古いのだろうかと思ってしまう。