最近、数年前に購入したNLPに関する本を読んでいました。
部下を持つ人のためのNLP(神経言語プログラミング)―困った部下とつきあうために、いやな上司にならないために
東京図書
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以前なんでこの本を手に取ったのかは少し覚えていない。
ただ、最後の最後まではなんだか面白くないなぁと思って読み切っていなかったように思う。
久しぶりに、なんだか読みたくなって読んでみたら、今読んでみると中々面白かった。
今の私は、少なからずメンバーと面談をする機会があったり、日常的にコミュニケーションを取る機会は多々あります。しかし、自分で自分に対してコミュニケーション能力を高く評価することはとても出来ません。
先日も、こんなことがありました。
自分が伝えたいことがあって、そのことを伝えようと話をしている。
相手からの反応があって、それに対してこちらも反応している。
中々相手との話が噛み合ずに、最終的に少しくすぶった状態で終わってしまう。
私は結構後々までそのことが頭から離れない性格なのでずっと考えてしまいます。
「なんでわかってもらえなかったんだろうか」
「どうしてあの人はああいう反応をするんだろうか」
色々と考えているうちに、実は自分が本当にいいたかったこと。伝えたかったことは
もう少し違う表現をしなければいけなかったのではないだろうか?と思うようになります。
こう伝えれば、わかってもらえたのではないだろうか?
つまり、コミュニケーションを取っている気になっているけど、おぼろげなイメージだけで”何となく”話をしている。
さらに思考の終着点が、”なんとかして相手を言いくるめようとしてはいないか”と言うところも気にかかるところですね。
自分の主張が必ずしも正しいとは限らないし、もちろんそれは相手のいい分にもあるとは思う。
そういう意味では、コミュニケーションというよりは、より明確にいうと議論が必要なのかもしれない。
こう考えたのは、下記の記事を読んだことも影響している気はする
日本人はなぜ議論が出来ないのか
http://www.huffingtonpost.jp/yasushi-ogasawara/post_4757_b_3234658.html
そう考えると、自分の論点を整理できていなかったとは言え、件の私は議論をしたことになるだろうか?
しかし、最終的に議論を終結に向かわせることが出来なかったので出来たとはいえないかな。
冒頭に紹介した本は、コミュニケーションに関する本だが、自分自身がどういう感情を持ってコミュニケーションに望むか?の重要性に関しても書かれている。
NLPに関する専門書と言う訳ではないので、NLPに言及することは出来ないが、心の持ち方に関しては、自分自身、しっかりと身につけて行きたい所。
特に
問題の発見を継続的に行わないと、重大な事態に陥ることを意味しています。しかし、問題の発見は同時に「機会の探求」と見ることも出来ます。 (p.232)
と言う考えは忘れずにいたい。