タイトル通りではあるけれど、岩内章太郎著「〈私〉を取り戻す哲学」をAudibleで聞き終えた。
私とはなにか
本書では「私」というものはなにかということを中心に話が進んでいく。
自分自身で考えてみると、妻から見たときの夫としての私。
子どもたちから見たときの父としての私。
職場での上司としての私や部下としての私。
大学時代の友人から見たときの私
それぞれ、私には違いないけれどその時その時での考え方や動きは微妙に異なっていたりする。
これらの差異は、意識してやっている部分もなくはないのかもしれないが、基本的には無意識下で行われる。
しかしゲームやメタバース、SNSなどのサイバー空間で考えると、いわゆるこれらのキャラ付けというのは、現実世界での使い分け以上に意識して行うことが可能になる。
特にゲームなどではゲームキャラクターとしての私になるし人間ですらないかもしれない。
それはもはや私と言えるのだろうか?とすら思えてくる変貌を見せることができる。
ただ、多かれ少なかれそれらの、変身欲求というか、そういったものはあるけれど現実世界の私とは異なっており、続けていくことに無理が生じることも少なくない。
人によっては、現実世界の私よりも軸足がサイバー空間のワタシにのめり込んでしまうということもあるらしいのでこのあたりは人それぞれなんだろう。
こういうことを続けていくと、結果として「そもそも私は何者なのか」が希薄になっていく。そして自分を見失ってしまっているのではないか。
そんな内容だった(と思っている)
私を取り戻す必要性
確固たる信念のようなものを持っている人は、それはいいと思う。
残念ながら私にはそこまでのものはないように感じる。
私を取り戻すって言うことは、そういうこととも思えるし、そうとは限らないとも思えている。
本書で言うところのエポケーだろうか。
正直、あまりうまく言語化できない。
つまりは、理解ができていないということでもあるのだろう。
まだまだ、アタラクシアにたどり着くのは先のようだ